紙一重
少し前のことですが、今でも強く印象に残っている出来事です。

その日はあいにくの雨でした。
発車ベルに急き立てられ、慌てて終電間際の電車に滑り込んだ僕は、回転しながら奥の方まで押し込まれ、よれた巻き寿司のような状態になってしまいました。
普段はのんびり自転車通勤、事務所では独り気ままに時と空間を浪費している身体には、この過激な人口密度は結構辛いものがありました。
パンパンの車内は人いきれで息苦しいばかりか、途中駅で加わる乗客たちの更なる圧力と、それぞれが手にしている濡れた雨具の不快さで、皆さん我慢も限界のご様子でした。
半時間程の荒業の後、ようやく折り詰めから解放された僕は、雨上がりのホームで大きく深呼吸をしていました。
冷たい湿気をたっぷり含んだ夜気は、僕の衰えた生命力を瞬く間に蘇らせてくれるようでした。
たまの電車でこれですから、このような日常を送っておられる方々のご苦労は如何ほどかと、半ば感心しながら歩き出した僕の前方から、何やらいびつなやり取りが聞こえてくるではありませんか。

あらら、僕の視線の先およそ20メートルほどで、男性二人がいがみ合っている様子。
ひと気の無いホームに響き渡る怒鳴り声は、やみかけた雨でしっとりとした闇間にすぐに吸い込まれてしまいますが、まわりを静かな林に囲まれた小さな駅では相当場違いな光景には違いありません。
周りを見渡しても、利用者の姿はとっくに視界から消え去り、淋しいホームには僕ら3人だけが取り残された格好です。
この駅に改札口は1カ所しかないので、このままだと僕は彼らのすぐ側を通らなければなりません。
そこに綺麗なご婦人でも佇んでいるのなら、勇み足で近づいていくのですが、この状況はちょっと考えものです。
急に歩幅が狭くなるのを意識しつつ、気配を殺しながら歩くワタクシの姿がありました。

もめているのは30代中盤のサラリーマン風と、20歳前後の学生風の2人の男性でした。
案の定、車内で傘が触れたの触れないのでトラブルになっているようです。
体格的に差のある学生さんは、どうやら劣勢に立たされているようで、大柄なサラリーマン氏に胸ぐらを掴まれたまま大きく揺すぶられています。
その圧倒的な構図を目の当たりにした僕の中に、判官びいきの心がぴくっと頭をもたげてきたところでした。

睨みをきかせたサラリーマン氏が立ち去ろうと踵を返した瞬間、学生さんの手にした傘が男の背中に激しく打ちつけられたのです。
まるで”窮鼠猫を噛む”の再現ドラマです。
「オイ、オイ、それはダメっしょ!」
僕が思うまでもなく、鬼の形相のサラリーマン氏が振り返ります。
あわわ、これは相当まずい展開です。
当方との距離およそ5メートル。
「もうちょっと後にして欲しかったな〜」
あわよくば、何事も目に入らぬふりをしたかった通りすがりの者には、これは最悪のタイミングでした。
考えをまとめる暇もないまま、彼らの間に割って入ることになってしまった僕は、とっさに学生の背中に手のひらをあて

『何もいい事ないよ!』

と、自分でも驚く程冷静に声をかけていました。
そのとき初めて見た若者の顔は、もうほとんど泣き出しそうで、その充血した瞳には言葉にならない感情を訴えるような、こちらに向かって助けを乞うような、そんな悲しげな光が灯っていました。
僕はそんな彼の目を見つめながら

『もう気が済んだでしょう。』

となだめつつ、その勢いでもう一方の男性の腰にも手をまわし

『あなたも十分やったでしょう。落ち着きなさいよ。』

と、彼をその場から引き離したのでした。
興奮したサラリーマン氏は何やら呟いていましたが、すぐに冷静さを取り戻したようでした。
降って湧いた予想外の展開に内心ドキドキの僕でしたが、素直に従ってくれた2人の反応にホッとしながらも、これが僕自身の身に降りかかっていたらと考えると、背筋が凍る思いでした。
腕に覚えの無い僕にとって、これは大きな賭けでした。
もし、どちらかに逆切れされていたとしたら、それ以上の事は何も考えられませんでした。
見たところ、お二方はごく普通の大人しそうな人達でしたが、僕も体験した電車内の劣悪な環境は、どんな善良な市民でも豹変させてしまうような、こんな危険をはらんでいるのです。

閉塞感たっぷりのこの時代、僕を含め世間の大多数の皆さんがギリギリの状態で生きているのは間違いありません。
巷で見聞きする凄惨な事件も、始まりはほんの些細なことなのでしょう。
そして、信じられないような凶悪犯罪を犯してしまう人間も、恐らくあの学生さんのような目をしていたように思えてなりません。
皆、自分のキャパの淵のところで踏ん張っていることを、ついつい忘れがちなんですよね。
そんなことを、ぼんやり考えながら歩く僕の後ろから

『ありがとうございました!』

大きな声が追いかけてきました。
驚いて振り返ると、そこには深々と頭を下げる若者の姿がありました。



ちょっとだけ泣きそうになりました。





ーーーーー





ひょんなことで御縁を頂いた方々が、こんな僕の文章に時間を割いて下さっていることに、大いに驚いております。
相変わらずのマイペースで、皆様をいらだたせていることは承知の上ですが、『あいつも、まだ生きてるんだな。』くらいに意識してもらえれば本望です。

どうもありがとうございます。








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